komanyunの日常

とりとめもないことを綴った雑記

癒しとは何か?

最近、何が癒しなんやろーなーと考えることがある。
赤ちゃんや子犬の寝顔に癒される人もいれば、マッサージや温泉に癒される人もいる。
ある人がふとつぶやいた言葉に、そしてくたくたの慣れた毛布に癒される人もいる。

我々はどうも映像、感覚、言葉など多岐にわたって癒されるようである。

私は癒されるという感覚は、かなり原始的な感覚だと思っている。
まだ頭がちゃんと出来上がっていない頃から、癒されるかそうでないか赤ちゃんは知っている。

癒されている時、脳はリラックスし、α波が多く出ている。
脳は人間を危険から守るための司令塔なのだが、その司令塔が率先して筋肉を弛緩させる脳波を出すということは、癒されるとはそれだけ生存維持に欠かせない大事な作業なんだろう。
いやむしろ緊張をするための前準備として弛緩が必要なので、弛緩のための仕組みも積極的に取り入れた結果か?

どちらにしろ、人間にとって癒されることは生命を維持するための重要な機能と言える。
しかし日本人は癒されることの有用性と快感を感じながらも、それを積極的に取得することを贅沢として退ける。
「私は常に精神鍛錬をすることを美徳としています」みたいな堅物さん。
そして本気で自分をそうしようと考えている。
いつでも武士の精神でいようとなさるのだ。

そんな無理するなよ・・・。

さて、癒しは原始的な感覚と述べたが、その感覚を遡ると、赤ちゃんの時の「抱っこ」を思い出す。
抱っこは、一見すると食べる、寝る、体温を保つ、清潔にするといった生存に欠かせない要素とは別なように見える。
しかし孤児のように特定の相手に抱っこされるという機会を失った個体は、やはり生育が悪いそうだ。
抱っこによってもたらされるもの(安心感)は、それほどまでに生命力に影響を及ぼす。

だとしたら、実は大人になっても結構な影響があるんじゃないだろうか?
さすがに抱っこはないにしても、抱っこされたときと同じ安心感が訪れる機会があるかないかで、健康が左右される可能性はあるかもしれない。
なんとなく大人になって「癒しが欲しい」とかいうと、周りから「甘えてるんじゃないよ」とか白い目であしらわれそうで、はっきり言えないけど、でも私は私自身の中に「怖いよー」と怯える心とか「助けてよ」という頼りたい気持ちは確かに見い出せるし、それに対して家族が「大丈夫だよ」「傍にいるよ」と言ってくれると、勇気が湧くだけんじゃなく、しがみつける安心感みたいなものを感じられるのだ。

大人だって怖い。
そうなんだ、怖いって言っちゃえばいい。
無理してクールに振る舞う必要性なんてない。

おばけなんてないさの替え歌
上司なんてないさ、仕事なんてウソさ、ねぼけた人が見間違えたのさ。
だけどちょっとだけどちょっと僕だってコワいな。
病気なんてないさ、問題なんてウソさ♪

そんな風に心の中には甘えを持って生きたいねぇ~。